2007年10月5日金曜日

Lotte Lenya Kurt Weil

MK 42658

 あまりにも有名なロッテ・レーニャのクルト・ワイル作品集。今でも様々なジャンルの音楽家によって演奏され、歌い継がれているワイル作品の、本家本元の名唱です。ロッテ・レーニャは、なんといっても『三文オペラ』の初演者であり、ある時期はワイルの奥さんであり(後に離婚したが)、ワイルの死後は、ワイルの作品を世間に広めようと尽力した人として歴史に残るでしょう。

 1973年ころ、詩人の長田弘が朝日新聞に、ボブ・ディランについて「ブレヒトの再来」と評価するエッセイを書いていた。ちょうどディランが復活し、コンサート活動を再開した時で、そのころ高校生で、ブレヒトという存在も知らなかった僕には、これがなんのことだかよくわからなかった。
 その後、いろいろな芸術に接するにつれ、ブレヒトの作品とも出会い、次第にあの朝日新聞に書いてあった意味も、なんとなくわかるようになっていった。とくに佐藤信の黒テントが舞台を日本に置き換えてブレヒト作品を取り上げたのに触発され、ブレヒト作品は身近なものになっていきました。俳優座の研究生のレッスンで「イエスマンとノーマン」をみにいったときには、僕のすぐそばに、当時80歳を越えていたと思われる千田是也がいたなあ。

 そうこうするうちにボブ・ディランの"Bringing It All Back Home"のジャケットの片隅にロッテ・レーニャのアルバムがあるのを発見した。ここに、僕は、ディランとブレヒトの関係性にようやく接したという気持ちになった。たしかに"Like a Rolling Stone"とか"I Shall Be Released"など、コード進行がクルト・ワイルっぽいな、という気もした。
 1960年代の米国ステューデント・パワーの裏には、確かにブレヒト/ワイルの影響が観られた。フォークソングのデイブ・バン・ロンクから、ロックのドアーズに至るまでにその影響が伺えた。

 ロッテ・レーニャのこのアルバムはアメリカ・サイドと、ベルリン・サイドにわかれていて、アメリカ・サイドはモーリス・レビンの指揮による、そしてベルリン・サイドはロジャー・ビーン指揮による伴奏となっていて、アメリカ・サイドでは「セプテンバーソング」とか「スピークロウ」などの名曲が、ベルリン・サイドでは「マック・ザ・ナイフ」、「バルバラ・ソング」などのブレヒト/ワイル作品が取り上げられている。ロッテ・レーニャの歌は、あくまでしなやかで、聞き心地がよく、何回も繰り返して聞きたくなってくる。
 これらの録音におけるロッテ・レーニャは何歳ぐらいだったのだろう。ベルリンのワイマール芸術最盛期に彼女たちが大活躍したのは1920年代だし、バプストの映画『三文オペラ』は1930年ころだから、仮に1950年の録音としてもロッテ・レーニャは50歳くらいになっていたでしょう(彼女は1898年生まれ)。

 ロッテ・レーニャや彼女を巡る男たちの物語、さらにその後に登場した多くの芸術家たちに与えた彼らの影響力を思うと、そのスケールの大きさと波瀾万丈の人生にただただ圧倒されるばかりだが、案外当の本人たちは大げさなことをやり遂げたという思いはなかったのかもしれない。さりげなく、あくまで自身に忠実に自分たちの表現活動をしていたのかもしれないな、と。そうした20世紀芸術の旗手たちの営みが時代を経てひとつの結晶となった、そんなことを思い起こさせるのが、このアルバムでありました。
 
 
 
 
 

2007年9月22日土曜日

ロックへの道(2)

MVCM-617
前回にひきつづき『ロックへの道』を取り上げます。前回はかなり感情的になり、テーマがずれてしまったので、今回は具体的にCDに沿って書いていこう、と思ってライナーノーツを読んだら、中村とうよう氏もロックの時代について微妙な表現をしていました。曰く
「しかし今、ロックも音楽産業が消費者に提供する商品のひとつでしかないことが、誰の目にも明らかとなり、むしろポップ・ミュージックのひとつとしてロックを見なおすことが必要になっている」
 というわけで、20世紀後半はロックの時代かもしれないが、その実態は以上のようなものである、ということでしょう。
 タイトルの"All Roads Leads to Rock"は「すべての道はローマへ」のもじり。このシャレも「ロック」の実態へのメタファとしてはとても面白い。僕の解釈では「ロックは帝国を形成したのか」という問題提起ということになります。
 こうしたテーマ設定からして、このCDは非常に難しい問題をはらんでいるのですが、試みとしては冒険的で、スリリング。改めて聞いてみて、教えられることがたくさんありました。
 以下気になったことをかいつまんで書いていきます。
 まずオープニング1曲目。これはマイクル・コールマンによるフィドル・チューン。僕たち50歳くらいの音楽ファンにとっては、アーロ・ガスリー『最後のブルックリンカウボーイ』のオープニングとエンディングに使われた曲として記憶に残っています。この時の演奏者は、ケヴィン・バーク、いわずとしれたボシーバンドのメンバー。このCDが発表された1996年ころはまだアイリッシュ音楽のブーム時にあったので、導入の「つかみ」としては時宜を得たものとなっています。中村氏も解説で、『アイリッシュ・ソウルを求めて』から引用をされています。
 次のアーティスト、アンクル・デイブ・メイコンも僕にとっては重要なアーティスト。それは、僕の大好きな音楽家、ガス・キャノンに「フェザーベッド」という曲があり、その元歌がアンクル・デイブ・メイコンに由来するからです。中村氏の解説は力が入っており、一読に値します。アンクル・デイブ・メイコンがカーター・ファミリーにくらべて評価が低い、という批判も微笑ましい。
 こんな感じで書いていくときりがないが、ひとつだけ指摘したいのは「ロック アンド ロール」 という表現について。
 このCDを聞いていると、戦前すでに「ロック アンド ロール」という表現が白人アーティストの間で流通していたことがはっきりとわかります。おそらく白人マーケットを意識することで、はやくも黒人たちが作り上げた、いきいきとしたリアルな表現は抽象化され、洗練されたものに変容していき、毒とか体臭みたいなものも消されていったのだ、という印象を受けました。
 白人と黒人の性表現にたいする感性の違いもその背景にあるかもしれません。
 昔覚えた知識なので、正確ではないかもしれないが、黒人の踊りは表現自体は実際の性行為のミメーシス(模倣)であるが、踊り手どうしが接触しなければモラルに反しない、しかるに白人のダンスは露骨な模倣を忌み嫌ったが、踊りの時の男女の接触は問題なかった、というもの。
 ダンスについてのこうした意識の違いの背景をもとに、ロック アンド ロール という表現とダンスの実態は微妙に変化していったのではないか、と思います。
 戦前のロックというテーマはとても刺激的で、僕自身1940年代のデューク・エリントン楽団のライブ盤を聞いたときも、これはジャズじゃなくてロックじゃないか、と思った記憶があります。

 
 

2007年9月19日水曜日

ロックへの道

10年くらいまえに 中村とうよう氏が企画編集された『ロックへの道』というコンピュレーションアルバムが出ていた。その解説のなかで、中村氏は20世紀の前半はジャズの時代で、後半はロックの時代だった、というようなことをおっしゃっていた。

僕はこの表現になんとなく違和感を覚えた。それは、僕自身がロックに目を開かされたのもまぎれもない事実だが、ロックに失望を覚えたのもまぎれもない事実だったからだ。

ジャズとかロックンロールというのは間違いなく様式(スタイル)で、それにこだわる、というのは十分に理解できる。音楽の変遷をスタイルの変遷として捉えるアプローチも間違いなく存在する。しかしロックという言葉は1970年くらいから曖昧化されてしまっていないか? ブルースやっても電気楽器やそのエフェクターを多用すればロックにならないか、民俗音楽を電気楽器でやればロックにならないか、などなど。(あるいは60年代ポップスはロックという枠でくくれるのか、という疑問もある)ロックという言葉がどんどん拡大解釈され、音楽業界に携わっている人々に都合よく扱われているからではないかと僕は思っている。ある意味で確かに「ロックの時代」といえるけど、これでは終わりがない。

こうなればロックという言葉にこだわるよりも、ひとつひとつの音楽を丁寧に聴く、というほうが正しい関わりかたじゃないかと思うようになった。ロックの音楽家や評論家がロックに対して信仰心を告白する、というのも良く聞く。これも正直いって理解できない。いや、音楽に対して誠実に関わる、ということを証明するためには、信仰心を表明するのが一番手っ取り早いから、それはそれでいいのかもしれない。

しかし1950年代から2000年くらいまでをロックの時代とするのはあまりにも強引すぎないか?

とりとめなくなってしまいましたが、ロックへの信仰(幻想)とジャズ(あるいはソウルとかカントリーとか、なんでもいい)への信仰(幻想)、に違いはあるのでしょうか?

2007年9月18日火曜日

はじめまして

吾妻虎太郎です。so-net.blogでテックス・メックスの紹介をしてます。このブログではそれ以外のジャンルについてかなり気ままに何か書いていこうと思います。